最近

 

 

某日

 

ひとりで京都の街を歩き、本屋に入る。旅先で感覚が研ぎ澄まされて、いつもより目に映るものが良く思えるあれは何だろうか。色んな本が面白く見えて、あれもこれも欲しいと感じる。その中で、日付だけがそのページに書かれているほどんど真っ白の紙が分厚く綴られた10年日記という本が置かれていた。10年分の〇月〇日の日記が同じページに記録できる、というものだった。その日の自分にはとても魅力的なものに見えた。その日記にはこれからの子どもが生まれるまでの生活と生まれてからの事を書き記していけば、後で見返したときに面白いんじゃないかと、安易に考えたのだ。でも、ふと思い立っただけで10年分の日記を書き続けられる自信はなかったので、横にあった1年分の日記を購入した。器が小さい。購入から3か月たったが、今のところ継続している。

 

 

 

某日

 

SNSで見たある言葉が良かったので引用しておく。

 

今日も音楽を聴いてこの歌詞は自分だけに向けられた特別なものだと思い込もう、本を読んでこれは自分の事を書いた小説だと錯覚しよう、映画を観てこの作品を深いところで理解できるのは自分だけだと勘違おう

 

優れた芸術は”まさに自分に向けられた特別なものなんだ”とより多くの人に思わせることができるものだ、ということだけど、本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を観たりしてこういった感情に出会うことは何にも変え難い瞬間だと思うし、何回でも経験したいと思う。

 

 

 

某日

 

最近聞いている音楽。

 


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みなさんは何を聴いているんでしょうか。

 

 

 

某日

 

奥さんと散歩。通りかかったお好み焼き屋で昼食を取る。一人で切り盛りするおばちゃん、手書きのメニュー表、誰も見ていないテレビ…。窓の外の繋がれた犬を愛でながらお好み焼きを食べる。見頃になった梅を見に山際の小高い場所にある公園へ行く。犬を散歩させる地元民、アウトドアファッションをした登山会の人々、小さい子どもを連れた家族…。賑わっている公園の中で、来年は子どもを連れて三人で来ようと話す。

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茶店に入り、「長い一日」という本を読む。日常の機微が事細かに書かれたエッセイのような小説。

 

やはりズボンの生地はよく伸縮した。膝を曲げる際には、お尻や太もも、膝の表の部分で特にその伸びを実感できる。この伸縮性が、俺の動きを妨げないのだ、という実感。そこには小さな満足と、よろこびがある。それを確かめるために、こうして意味もなくときどき屈伸運動をしてしまう。誰にも伝えられることのない、伝えるほどのものでもない、私服を着る日つまり週末と祝日の、小さな俺のよろこび。それがこの伸縮性によってもたらされる。いつでも。そして何度でも。伸び広がりと、元に戻るちから。そしてそれを繰り返してもへたばらない耐久性。ああ本当に、今日はなにを食べよう。

 

伸縮性の良いズボンを履くことが好きだ、というだけのことがこんな風に書かれている。幸せは日常にあるということ。

 

 

 

某日

 

ceroの高城晶平さんの文章を読んで感銘を受ける。

 

私は二歳のわが子の背中を追っかけ回している。放っておくとどこまでもスタスタ歩いていってしまうミニ四駆みたいな男の子だ。彼の危なっかしい軌道に集中力を注いでいると、時々、私の視野はピンホールカメラのように四隅が暗く、狭くなる。そんなとき、私の胸の片隅にある拭い難い感覚が根を下ろすーー退屈だ。

日々成長していく子どもたちとの時間は、そのすべてが貴重でかけがえないものなのだと、たしかに思う。それでもなお、退屈を感じずにいられない私は、どこかおかしいのだろうか。子どもっていくら見ていても飽きないですよね、なんて言うパパ友の前では、考えることも憚られるようなこの疼き。

ところが、ひょんなことであっさりこの感覚から解放されることもある。例えばベビーカーの上で子どもが疲れて寝てしまえば、次の瞬間にはもう退屈の靄が晴れていたりする。すると、それまで見逃していた風景のディテールがだんだんはっきりと見えてくる。本屋の海外文学コーナーが、古着屋が、喫茶店が、レコード屋が、おもむろに目の前に現れる。たくさんの可能性を伴って、街が本当の姿を現す。子によってマスキングされていた感覚が、突如として戻ってくる。なんて言うと、子どもを邪魔者扱いしているようで気が引けるが、自分のコンディション次第で街の見え方が異なるのはたしかだ。

 

先に京都で感覚が鋭くなると感じたのもまさに「たくさんの可能性を伴って、街が本当の姿を現す」ということだったと思い、それが言語化されたことが嬉しかった。

後はなにより子どもと過ごす時間を退屈だと感じたと正直に書かれていること。まだ子ども生まれていないけど子どもがいる喜びとは別に、子どもがいることでの不自由さ、そしてそれを声に出すことをはばかられる窮屈さっていのうはあると思う。

 

散歩して喫茶店に行くのが楽しみという、上りも下がりもせず落ち着いた今の生活は心地よいが、30歳そこそこにして人生の秋を迎えた老人になったような気がして、時々このままでいいのかと感じる。そんな中、数週間で子どもが産まれてきて今の心地いい生活は忙しい毎日に変わるだろう。その時自分はどう思うのだろうか。考えてもわからないが、今は期待とも不安とも言えない気持ちを抱えていることだけを書き記しておく。

 

 

高城晶平高城晶平