最近

 

 

某日

 

AM8:29、2940g50cmの女の子が生まれる。それまでの不安や雑念を一気に超越してその産声が実感として胸に突き刺さる。立ち合いはできたが、コロナ禍ということで病院には長居させてもらえず追い出される。その後、自分の興奮を抑えるために海を見に行った。気持ちの良い快晴であったが、平日だったこともありその景色をほとんど一人占めすることが出来た。満ち足りた気持ちで、気を緩めると頬が緩み足の力が抜けた。頑張ったのは奥さんであり、自分は何もしていないが。

 

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そして一人で焼肉を食べに行った。豪華なものが食べたかった。焼肉を食べていると、まだ何も報告していない友達から「子供が生産まれるのはそろそろ?産まれたら報告してくれな」とラインが。今日産まれたと返信するや否や電話をかけてきてくれた。病院を出て誰とも話していなかったので、その喜びを話せることが嬉しかったし、偶然その日に連絡をくれたことは今でも印象深い。そして彼にも6月に子どもが産まれる予定という報告を受けたので、その時にはできれば同じように電話をかけて喜びの声を聞きたい。

 

 

 

某日

 

犬のいる暮し(中野孝史)」という本を読む。犬に対する、ひいては物事に関する評価基準に関して以下のように書かれていた。

 

 

現代の日本くらい、とくに若者のあいだで、「かわいい」ということが最高の誉め言葉になっている時代と国はなかったのではなかろうか。

 

「凛々しい」とか、「けなげ」とか、「気品がある」とか、「力強い」とか、「毅然とした」とか、「逞しい」とか、「雄々しい」とか、そういう価値が尚ばれないで、ひたすら「かわいい」が最高の価値基準をなしている時代は、非常に未成熟な、積極性と主体性を欠いた時代ではないか、と思っている。

 

(中略)

 

かわいがられる存在であることがそれほどに重視されるとは、人間としてどこか未発達で幼児性を残しているとしか思えない。

 

 

なんにでも「かわいい」と言ってしまうことが多いが、確かにしっかりと思考すれば評価する基準はそれだけではないだろうとハッとさせられた。

 

 

 

某日

 

映画「C'mon C'mon」を見る。

 


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A24から新作が公開されたから観よう、というくらいの前情報なしの状態で映画館に行ったが、子どもと一緒の時間を過ごし対話していくことで心を通わせていくということが主題であり、子どもが産まれたばかりの自分の状況と重なって不意打ちであった。

 

 

フィールドレコーディングを趣味とするジョニーはその良さを甥のジェシーへ伝える。自然や街の音を切り取って録音することで、一瞬を永遠にすることが出来るのだ、と。そして映画の後半、別れの時間が近づいた夜にベットの上で、ジョニーはジェシーへと語りかける。いずれ一緒に過ごした日々を思い出せなくなるだろうけど、それでも今一緒に過ごしていることが大切なんだ、と。儚い一瞬一瞬に対する繊細な眼差しが根底にある優しい映画だった。

 

 

 

某日

 

最近聞いている音楽。

 


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FFKTというフェスでJohn Carroll Kirbyが来日するということで見に行きたい(FKTの前身であったtaicoclubに行ったのも楽しかった思い出として残っている)。他にも森道市場とかThundercatや!!!といった海外バンドの来日も気になるが、子どもがいることを考えると行きにくいのが悔しい。子どもを持つ人はみなどのように折り合いをつけて、自分のために使う時間を確保しているのでしょうか。「C’mon C'mon」を見て感じたこともあったが、そもそも一人の時間を確保できたからこそ映画館にも行けた訳で、その辺人生は一筋縄ではない。

 

 

 

某日

 

学生時代の友達と飲む。会社の同僚や社会人になってからの友達、家族とも話せない上記のようなことを話しした。根本となる人格が形成された10代の頃のバックグランドを知っているため、お互いに話していることの理解度が非常に高く、とにかくストレスフリーであった。平日は遅くまで残業し、休日は疲れないための最小限の行動しかできない毎日にはこういう溌溂とできる時間がなさ過ぎる。もっと近所の、気軽に会える場所に気の置けない友達がいてほしいと思う。