某日
FKJの6月の来日公演。まさかの即完でチケット買えず。行く気満々だったので唖然となる。
FKJは2018年のTAICOCLUB、夜中12時頃のステージを観たのがとても印象に残っている。日中は暑い6月でも山奥の夜中はさすがに寒く、澄んだ空気の中、みそ汁など飲み、暖を取りながら遠目に見たステージ。モノクロのVJに、あらゆる楽器を一人で演奏する影だけが映っていた。当たり前だが夜中なのでステージ以外は真っ暗で、自分の体の輪郭が夜に溶けて、スムースな音楽と、自然の中で一体化するような気持ちよさ。
とか回想していたが、運よくSNSでチケットを譲っていただけることに。ありがとうございます。
今回の来日は普通にライブハウスで行われるのでTAICOCLUBのようなシチュエーションではないが、その時の追体験を期待してしまう。
某日
「夜明のすべて」を観た。PMSを抱える女性とパニック障害を抱える男性が徐々に心を通わせる様を描いた映画。原作小説は読んでません。
あなた(私)の抱える生きづらさを、私(あなた)が、そして周囲の人が受け止めることのできる優しい社会。すべての人が他人に対する少しの優しさを持ち、他人を理解しよう努めることで、それは少しづつ実現される。ただそれを実践し続けることは、この競争社会に生きる人間にとっては難しいことではないだろうか。例えばこの映画を見て心が洗われたとしても、次の日に気に食わない仕事相手のいる忙しい職場に行くことで、その瑞々しい気持ちは鮮度を失っていく。理想と現実。
逆に言うと映画の中でくらい理想を見たいという気持ちもあるのだけど、この映画を観て「流石にそんな綺麗に話進むのか?」と思ってしまった。
映画序盤で「お互い無理せず頑張ろうね」と女性が言ったことに対して、男性は「パニック障害とPMSでは症状も困難も全く違うのでは」という旨の言葉を投げかけ、ぶっきらぼうな態度で壁を作り続ける。それでも女性は男性に対して寄り添う姿勢を示し続けた結果、ある些細な出来事で男性は女性の前で大笑いすることになり、心を開くきっかけとなった。程なくして女性の抱えるPMSの症状を理解しようとも努め始める。
その「些細な出来事」が本当に些細だと思ってしまって、見ているだけでキリキリするようなキツい言葉を吐いた男性の態度が180度変わるきっかけになるとは思えず、最後までその違和感を抱えながら観ることになってしまった。本当にこういうきっかけで人の心が入れ替わるのであれば、それは良いことなのだろうけど。自分の心が狭いだけなのかもしれない。
他にも主人公2人を囲む周りの登場人物が皆、2人に対してあまりにも十分に理解を示すことのできる人であったことも、「そんなに優しい人ばかりか?」と思ってしまった。この感想も自分が優しくないことの裏返しなのかもしれない。登場人物の一部は、その人もまた何かしらの苦難を抱えていて、それがその人の持つ優しさにつながっているようにも考えられる描写があったのだが、何かしらの苦難を抱えることが人に優しくできる条件なのであれば、それはそれで悲しい。
某日
BSのNHKでやっている「世界ふれあい街歩き」という番組を見ている。目線位置に合わせたカメラが世界各国で街歩きをし、その国の情報を教えてくれたり、街の人と触れ合ったりする平和な番組のブラジル・リオデジャネイロ回。美しいコパカバーナ海岸で日光浴をする人と飲み物を売り歩く人、サンバを演奏する人・・・皆あまりにも陽気でクラクラする。テレビだし、良いところを良いように映しているんだろうけど、それでも狭い範囲で暮らしていると知りようのない世界を知れて面白い。
ブラジルの賑やかな音楽を聴きたいと思い、OPAの"BACK HOME"というアルバムを聴く。
陽気なラテンのノリの中にビートルズみも感じる好きな曲。だが、よくよく調べるとブラジルではなくウルグアイのバンドだった。ウルグアイ、調べるとブラジルのすぐ隣の国だった。惜しい。
某日
小西康陽の「わたくしのビートルズ」という、400ページ程のボリュームのある本を家で少しづつ読んでいる。コラムや対談、日記、小説をまとめた所謂バラエティブックというものだが、どのページを切り取っても上品で都会的なのである。音楽や映画に関する固有名詞が数多く出てくるが、ほとんど知らない中でも読み進めているのは、このハイソで少し気取った文章を読んでいたいから。
誰かに恋をしているとき、私は他人にそれを話したり、悟られたりすることを好まない。恋愛とは隠し事を楽しむスポーツだから。友人たちの集うナイトクラブへ出掛ける時には、入り口の前で彼女と連れ添って入るのだが、中に入ってからは、もう肩を寄せて歩いたりはしない。一人でも知り合いの顔を見掛けたなら、その後は店を出るまで、恋人ではなく、ただの顔見知りを装って過ごすのだ。
(レナード・コーエンの偽日記から。)
恐らく小西康陽自身、上品な雰囲気を身にまとっている方なのだろう。文章の文体が書き手の人柄を表していると感じるのは興味深い。例えば、読んだだけで書き手が男性か女性かわかったりする文章はあったりする。同じ日本語を使って書いているのに。
それがなんだという話ですが、興味深いなと思ったという話です。
某日
これまでは「楽しくはないが、(お金ももらっているので)そこまで嫌ではない」と思っていた仕事が、「楽しくもないし、嫌だ」と思うようになってきた。前提として仕事内容も別に好きではない上に、ことなかれ主義の組織風土が好きになれないにも関わらず、それに染まってしまっている自分も嫌だ。だが、そもそもそんなことは人に話しても楽しくない話題であり、「じゃ辞めれば」と一蹴されれば、そんな度胸もないというだけの話であるのであまり人には話さない。
だが、飲みの席でうっかりそんなネガティブな話をしてしまい後悔。まずその場にいた人は、自分の仕事について熱っぽく話していたが、その熱量を自分は持ち得たことがない。「おもんない仕事なんかない、おもんないのはお前だけ」と言われているような気持ちになり、自己嫌悪。
一方で、なぜこれまで「楽しくはないが、そこまで嫌ではない」と思えていたのかを自問自答すると、愚痴を言いあったり、どんな状況も笑い飛ばしてくれるような同僚や上司に恵まれていたんだとわかる(今の部署にはそういった人がいない)。
しかし、最近そんな先輩の1人が会社を辞めることとなった。趣味の登山が高じて、長野に移住し山小屋に住み込みで働くとのこと。その先輩は日ごろから仕事はおもんないと言いつつ、やることはしっかりとやり、飲み会ではいつもガハハと笑い、毎回酔いつぶれるような豪快な人だった。良くしてもらっていたその先輩が会社を辞めて、自由に暮らす世界へ旅立ったことは、結構食らってしまった。
そんな悶々とした状態に打開策もなく、気持ち的に行き詰っている。皆仕事に対してネガティブな感情は多かれ少なかれ持っていると思うが、どのように折り合いをつけているのだろうか。目下のところは旅行の計画を最大の楽しみとして堪えている。身体を、日常から物理的に離れたところに置くことで、精神的にも日常からかけ離れた状況を作り出すしかない。
某日
最近、元気をもらった投稿。電車の中で笑顔になってしまったし、連続で7回ぐらい再生した。
某日
日曜日の昼間に近所の公園まで子どもを連れていく。丁度昼食時の時間帯で、日曜日だけど人は誰もいない。子どもは自由に歩き回り、水道をひねったり、ベンチに上ったり、遊具で遊んだりする。親は後ろからそれについて回る。こうしている間は子どものことしか考えなくて済むし、世界に子どもと自分の2人だけしかいない、時が止まったような錯覚にも陥る。子どもが一人で遊びに出かけたり、友達と遊びだすまでの限られた時間。ご一緒させてもらっているという気持ち。大事にしたい。