日記

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つかのまの気持ち

 

1人でいる時は頭の中で思考や感情がぐるぐると駆け巡るのですが、どうも人と対面するとその速度が低下して、伝えることが難しくなってしまうことがあります。即座に言語化するということが下手なのかもしれません。十分に推敲する間もない会話の中で、常に自分が言いたいことを過不足なく瞬時に言葉に出来るというのは才能や努力が必要なのものように思われます(私は才能もないし努力もしてこなかった…)。

そうして行き先を失った言葉が、私の場合ブログで書かれているということになっています。頻繁に更新している訳ではありませんが、一番古いエントリを見ると2015年となっており、10年も続けていたことに自分でも驚きました。

受け手のいない日記ではなく、誰かに話を聞いてもらうためのコミュニケーションツールとしてブログを書いてきました(ただ、誰かから求められた訳でもないのに、自分のことを書いて世に公開しているなんて恥ずかしいことをしているなとも思います)。

 

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一方で、もしかすると人との会話や仕事である程度自分を表現できたりアウトプットできている人は、ブログなどは書かないのかもしれません。

でも逆を言えば、そうでない人にはブログを書いて欲しいなとも思います。私はブログを読むのも好きです。お金儲けとは違う世界でふつうの人が書いたブログを読んでいると、内容は様々ありますが、色んな人がいるな〜みな色々考えて生きているな〜と(阿呆みたいな感想ですみません)当たり前のことが見えてきてなんだかエンパワメントされるのです。そんな風にどこかにいる誰かが書いた言葉が、誰かのお守りになっているはずです。

 

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そしてブログ同様にZINEも、プロではない人が作るものとして好きで色々と買ったりしていました。なにより形があって手に取れる分、作り手とダイレクトに繋がる感覚があります。今までZINEを作るきっかけはなかったのですが、どんな形かわからないけどいずれ作ってみたいなとは思っていました(ZINEを作ることも、もうブログを書くことの恥ずかしついでです)。

そんな中、この夏にイギリスと沖縄に旅行したのをきっかけにして、初めてZINEを作ることにしました。

イギリスにはoasisの再結成ライブを見るのに合わせて17日間、沖縄にはオードリーのオールナイトニッポンのイベントを見るのに合わせて4日間行きました。ともに、普段の生活圏から離れた場所に身を置くことの素晴らしさを改めて感じた旅でした。

 

このZINEはブログと違って、文章中心ではなく写真が中心です。ただ、これが私のコミュニケーションツールのひとつであることには違いありません。私が見た旅先の景色を誰かにも見てもらいたいという思いです。でも、写真の他に短い雑文も書いています。

 

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タイトルは共通して「つかのまの気持ち」です。

忘れっぽい私はその時々の気持ちをすぐに忘れてしまい、毎日のことが毎日に消えてしまいます。恐らくこの旅で感じたことも。それを少しだけでも覚えておくためのものにしたいという思いからこのタイトルにしました。

 

作っている最中は「誰かから求められた訳でもないし、素人写真だし作る意味あるのか?」と思うこともありましたが、写真は撮ることよりも人に見られてこそのものだと思いますし、やはり自分なりのアウトプットをしたい、それも今まで書いていたブログではなくZINEという形あるものを作りたい、という思いで完成させました。そんな私のエゴや自己満足からできたZINEではありますが、気にかけていただけたら幸いです。

 

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「つかのまの気持ち イギリス編」はA5判136ページで2,000円、「つかのまの気持ち 沖縄編」はA5判48ページで1,500円です。二冊まとめて購入いただいた場合は3,000円といたします。送料込みの価格です。

購入は以下サイト、もしくはinstagramXのDMなどからお願いします。

 

tsukanumano.base.shop

 

 

 

 

イギリス編

イギリス編より①

イギリス編より②

イギリス編より③

沖縄編

沖縄編より①

沖縄編より②

沖縄編より③










 

 

 

最近

 

某日

 

SNSでランダムに上がってきた投稿を再度見たいと思っても、なかなか見つけられないようことがある。

そんな風に感情も常に流動的で、その機微は一瞬頭をよぎった後、思い出そうとしても思い出せないようなことが往々にしてある。特に3歳児を育てていると、子どもの喜怒哀楽の移ろいは激しく、大人は簡単にその渦に飲み込まれ、10秒前には何を考えてたか忘れてしまったりする。

滝口悠生という作家は、そんな普通は目を前を通り過ぎていく感情を掬い取って、逃げていかないように的確な言葉で留めるような小説をいつも書いていて、私はそれを読むのが好きなのであるが、「楽しい保育園」という子育てを中心とした小説が発売されたということで、購入。

小さい子どもを育てている親にはオススメしたい一冊なのだか、読んでいて個人的に思ったのは、自分も同じように子どもを巡る種々雑多を書き残したいということ。日記を付けていることは以前書いたが、自分でも読み返さない走り書きの日記ではなく、自分も含めた誰かに読まれることを前提とした文章。

ということで、この本にきっかけをもらって、以下つらつらと書いていきます。

 

付箋がいっぱいになった一冊

 

 

某日

 

休日。上の子は7時前に起床し元気いっぱいなのだが、それについていけない親はアニメを観させて、ぼーっとしたりやるべきことをやったりする。今日見たアニメはペンギンのピングが凧揚げをしようとするがなかなか上手にできないというもの。そしてそれを見終わった子は「今日、凧揚げしたい」と言う。季節外れの凧揚げであるが、今日は予定もなく断る理由がないので了承の旨を伝え、朝食を食べる。

朝食後、ベランダの植木に水やりをしていると、子もベランダについて出てきて、その流れでベランダに立てかけてあった家庭用プールを見つけて「プールしたい」と言い出す。瞬時に蛇口からホースを引いてきたり、使い終わったおもちゃを並べて乾かすのなどが面倒だと思ったが、子どもの目の輝きを見るとプール遊びをしない方が面倒なことになるのはわかった。自ら水着まで着てプール遊びをする様子を見ていると、凧揚げのことはすっかり忘れたのかなと思うが、プールを出て着替えた子はしっかりと凧揚げのことを覚えていた。この時点で10時半ごろ。早起きする子どもの一日は長い。

凧を持って2人で家を出ると、やはり嬉しい様子で「おっきい公園行こっか」「お空の上まで飛んでいくかな」「パパ先にやってね、そのあと◯◯ちゃん(自分の名前)がやるから」とハイテンションで色々と捲し立てる。

子を自転車の後ろに乗せて5分程度にある公園へ向かう。真夏の7月、さすがにこの時間から公園で遊んでいる子どもは一人もいなかった。公園に着いて「凧上げしよっか」と後ろを向くと、子は首をコクコクさせて空な目をしていた。自転車の揺れが眠りを誘うことはあったが、ついさっきまでのハイテンションからの落差に思わず笑ってしまう。宙ぶらりんになった「凧上げしよっか」という言葉はひとり撤回し、黙って再度自転車を出発させ、完全に寝るまで自転車を走らせるのに徹することにした。

炎天下で歩く人も少ない中、自転車で当てもなく街中をぐるぐる走るなんてことは、こんな風に子どもに振り回された挙句でないとすることはない。爆音の蝉の鳴き声を聞いていると、時が止まって子どもと二人だけの世界を走っているような気持ちになり、無心で自転車を漕いでいた。

 

入道雲が立ち昇る7月某日

 

 

某日

 

平日。上の子は保育園へ行き、家の中に平穏な時間が流れる。皿洗いをしていると、最近ずり這いスキルが向上し、ゆっくりだが確かに自分の意志で移動できるようになった下の子が足元に寄ってきて、まだ乳歯が2本しか生えていない口で、噛むとも舐めるともいえる調子で踵のあたりをはむはむと咥えるのであった。何でも口にしたい時期だ。くすぐったいし歯も当たって少し痛いが、心地よいので好きにさせておく。

その後、子を抱えてソファに座りミルクを飲ませていると、子はそのままウトウトとし始める。乳幼児がミルクを飲むのは本当に全集中という様相で、徐々に体が熱くなってきて、頭には汗をかく。それを抱える親も、その心地よい重さと体温、汗臭い髪の毛の匂いを感じながら眠気を感じる。

流していたラジオから「そのあと」という曲が流れてきて、子どもがいる風景に似合う曲だなと思いながら、子に誘われるように眠りに落ちていた。

 


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某日

 

映画「海が聞こえる」を見た。

 

 

高知の進学校から東京の大学に進学した杜崎拓は、JR吉祥寺駅のホームで武藤里伽子に似た女性を見かける。だが、彼女は高知の大学へ行ったはずであった。

初めての夏休み、高校の同窓会のために帰省する飛行機の中で、拓の思いは自然と里伽子と出会ったあの2年前の夏の日へと戻っていった。季節外れに東京から転校してきた里伽子との出会い、ハワイへの修学旅行、里伽子と2人だけの東京旅行、親友と喧嘩別れした文化祭。ほろ苦い記憶をたどりながら、拓は里伽子との思い出を振り返っていく。

via Wikipedia

 

大学1年生の夏休み、東京から田舎の高知に同窓会へ向かう拓の回想で進められる。親友の松崎豊と、高校2年生の夏に東京から転校してきた森崎里伽子を中心とした友情と恋愛(もしくは以前のそれ感情)を巡る話なのだが、回想している拓はまだ大学1年生…高知での出来事を懐かしく思い返しているが、どれもたった2年~半年前の話。大学進学で環境が一変した時に、濃かった高校時代を思い返すというのは、19歳特有の感情だろう。

美人で文武両道な里伽子は、男子から憧れの眼差しで見られるという描写もあったが、それよりも他人に配慮できない自己中心的な一面や幼さが随所に見られる。修学旅行先のハワイで、東京の父親に会いに行くための資金ということを隠して、拓に「お金を落としたから貸してほしい」と6万円を借りたりしている。そんな里伽子に憧れや恋愛感情を持つということは、大人になればそうないことだが、やはり高校生男子は惚れてしまうのだ。自己中心的で幼稚な里伽子に対しても、そんな里伽子に惚れてしまう拓や松崎に対して、懐かしさを伴った青臭さを感じる。

 

93年公開ということで、修学旅行でハワイに行ったり、「カップリングする」などの言い回しが出てくるなど、随所にバブルの残り香を感じさせる。また、未成年の飲酒シーンもあっけらかんと流れてきて、公開時のおおらかな時代背景も垣間見られる。他にも今はないスプライ缶のデザインや家電のコードを巻きながら話す長電話など、映画全体に漂う時代のムードは、永井茂のサウンドトラックと相まって、91年生まれの私が経験していない時代への憧憬を掻き立てる。

 

72分という短さもあるので、暑い日に喫茶店へ入りメロンソーダでも飲んで休憩するように、気軽に観れる映画かと思います。さっぱりとした爽やかな気分を味わえる。

 

 

某日

 

バラの花が見ごろの季節。バラが咲く前を通り掛かった時、花の前で写真撮影をする親子を見かける。4人の子ども(長男とその妹3人)が花の前に立ってピースをしたりして、親がその写真を撮ろうとしていたのだが、親が一言「メンズは写らんでええねん」といい、手で払い退ける仕草をする。小学校低学年くらいの長男はピースしていた手を下げて、カメラを構える親の背後に回る。なんとも胸が苦しくなるところを見てしまった。

女の子3人だけで撮りたいのであっても、もっと言い方はあったのではないだろうか。こういったところから、歪な感情(女尊男卑に対する暗雲たる思い)が男の子に植え付けられたりしていくのでは、思い巡らせてしまう。ひいては同性兄弟(姉妹)であっても、どちらかを贔屓するようなモノ言いは、「僕は(私は)大事にされていないんだ」という自信のなさ等を生んだりし兼ねないなと、子育て中の親としては考えさせられたりした。

 

バラ園を駆けるわが子

 

 

某日

 

上司と、同僚とその上司の4人で出張先で町中華に入り昼ご飯を食べることになる。私以外の3人はラーメンチャーハンセット2700円を注文(高いが、半チャーハンではなく普通に大きいチャーハン)。私はラーメンだけを注文。揃ってオーダーが到着、美味しく頂く。早くラーメンを食べ終えてしまったところで、やっぱりチャーハン食べたいなと思ってしまう。他の3人はまだ食べているので、急いで追加注文し、急いで食べたら間に合うだろう。注文。すぐに届き、チャーハンをかき込むのだが、やはり先に他の3人が先に食べ終えてしまう。マズい、と思っていると3人は立ち上がってしまう。上司に行くぞ、と背中を叩かれてしまうので、チャーハンを少し残して席を立つ。急いで口直しに"消しゴム"を一口齧り、お会計をしてくれている上司にご馳走様です、と言い店を出る。同僚の昼食代も同僚の上司がお会計をしてくれていたので、高かった分ありがたいなという目配せをし合う。が、数歩行ったところで、私と上司、同僚とその上司の2ペアが少し離れて歩くことになった時、上司から先のお金よろしく、と言われる。同僚とその上司の前では自分が払う素振りを見せたのに、後からこっそりと請求するという、ケチの癖に見栄えを気にする根性に愕然とするが、いやいや払って下さいよとも言えず、歯を食いしばってお金を渡す。渡すために2700円を握った時、2700円も自腹出すのに、上司に背中トントンをされてチャーハンを全部食べられなかったことが再認識され悔しくなる。さらには最後に一言齧った消しゴムの食感も気持ち悪く思い出される。後から上司に請求されたことは、絶対同僚には報告しよう…と思っていたところで、目が覚めた。

私は育休中なので、上司と出張はないのに、嫌な夢を見てしまった。上司は実在の人(普段からケチだと言われがちである)であり、リアルな設定ではあるが、町中華のラーメンチャーハンセットにしては2700円と割高だが細かな価格設定であったり、違和感なしに消しゴムを齧っていたりする妙な夢だった。目が覚めて残ったものは、ケチ格好付け上司への怒りと、謎に齧った消しゴムの食感の気持ち悪さであり、気持ちの良くない寝起きであった。同僚に報告出来なかった無念を晴らす代わりに、ここに記させて頂く。

 

 

某日

 

7ヶ月になる子どもをベビーカーに乗せ、近所の喫茶店に入る。「2人」と伝え、席に着く。飲み物を注文した際、店員さんは「お二人…」と少しの戸惑いがあったが、ベビーカーの子どもを見て、合点がいったように「お二人ですね」と子どもに微笑みかけてくれた。

ここで気が付く。入店して「2人」と伝えた時、店員さんはベビーカーの子どもは1人とカウントせずに、後から大人がもう1人やってくるのだと理解していた様子だった。もちろん7ヶ月の子どもは何も注文しないので、店側からしたらそう理解するのも全くおかしな話ではない。こちらが「2人」と伝えずに「1人とベビーカー1台」と伝えれば正確だったが、それを煩わしいとしてしまったのが良くなかった。

この時に思い出されたのは、上の子を初めて外食に連れ出た時のこと。それは近所にあるファミレスだったのだが、そこのでは着席と同時に、ベビーカーに乗せた子どもに対してもコップに入ったお水とおしぼりを出してくれたのだった。今になれば、何も特別ではなくマニュアルにある対応だろうし、そういったことをしてくれる店はよくあるのだか、初めての外食で我が子を立派な「1人」として扱ってもらったことは、私たち夫婦にとって印象に残る出来事なのであった。ベビーカーに乗る子どもは水は飲まないし、おしぼりも使わないのに、目の前にそれらが置かれているのは、不似合いで可笑しいねなどと話したのを覚えている。

かと言って、やっぱりベビーカーの子どもを1人とカウントしなかった喫茶店の店員さんの理解の仕方を非難したい訳ではなく、このように子どもを連れて出歩くと、些細なことが日常のフックとなって記憶に残っていくのだな、と思った。

 

 

某日

 

上の子が通う保育園では毎年「おはなしあそび会」という、所謂お遊戯会のようなものが開かれており、我が家では保育園が販売するそのブルーレイを毎年購入しているのだが、そのブルーレイを家族の中で最も熱心に見ているのは上の子自身である。見たいと言うのは自分のクラスの時もあるし、「お姉ちゃんの」と言って年上のクラスを見たいと言う時もある。子は、自分より年上の「お姉ちゃん」に絶対的な信頼と憧れを抱いているようで、よく公園でも見ず知らずのお姉ちゃんの後を付けて、あばよくば一緒に遊んでもらおうとしたりしている。そんなお姉ちゃんが、テレビの中で楽器演奏なんかをしているのを、何も言わずにじっと見たりしている。憧れの眼差しというような目線で見ているのだと思う。

もちろん自分の映るクラスを見ることもあり、「ひしゃぶり(久しぶり)にこれ見たい」と1歳児クラスの時のブルーレイを手渡され、再生する。1歳児クラスの、ベイビーとキッズの間の姿がそこに収められている。1歳児クラスの「おはやしあそび会」は、先生がお歌を歌うのに一緒に歌ったり歌わなかったり、名前を呼んだりするのに反応したりしなかったり、各々が部屋の中をウロウロしたり端に固まったりと自由に過ごしており、年上の子のお遊戯とは違う微笑ましさがある。

そしてそこには「ひなちゃん」という女の子が写っているが、ひなちゃんは2歳児クラスに進級するタイミングで園を離れてしまったので、今は同じクラスにはいない。「ひなちゃんがいるね」と話しかけると、上の子は「うん。でもひなちゃん、今、ずっとお休みしてるの」と答える。いなくなってしまったのではなくてお休みをしているのであって、いずれはまた再会出来るのではと思っているのか。その健気さに対して、もう恐らく会えないというのを話すのは余りにも野暮だと思い、「そうなんだね」とだけ答える。

しかし、3歳になると「もう会えない人」がいるという事実は全くわかっていない訳でもなさそうで、子が2歳2ヶ月の時に亡くなったジイジ、2歳11ヶ月の時に亡くなったバアバの家の犬がどこにいったのかは咀嚼している最中であるように思う。路上で虫の死骸を見つけて「死んじゃったのかな、ジイジと同じ所にいったのかも」と話しかけると、「ハルちゃん(実家の犬の名前)も?」と死んでしまった人という関連付けから自ら犬の名前を出してきたりして、ハッとさせられた。

だがよく考えると、もう会えない人という意味ではひなちゃんもジイジもハルちゃんも、実はあまり変わりがなく、「ずっとお休みしている」人と亡くなってしまった人は、残された人にとってはあまり違いないのかもしれない。しかし、それは残された人が記憶している限りの話で、時間が経って子がひなちゃんもジイジもハルちゃんも忘れていってしまうのではと考えると、成長していく子どもにどうしても儚さを感じる。

 

 

某日

 

そんなことを考えていると連鎖して思い出されるのは「百年と一日(柴崎友香)」という小説であった。タイトル通りとある一日の出来事が書かれていたかと思うと、次のページでは百年後の話になっているというものだ。ミクロな時間の濃さとマクロな時間の儚さ。

子どもが生まれてから、百年先の子供が100歳とかになった時に思いを馳せるようになった。自分が存在しなくなった世界でも、今モチモチ肌の子どもはシワシワになって生きているかもしれないし、その子ども、とその子供とその子供が生きているかもしれない。初めて標語とかにある「未来の子ども達に繋ごう」というのを実感を持って感じるようになったし、その子たちにとって苦労の少ない社会であればいいと思うようになった。自分がいなくなった後も、自分のことを覚えている人がいるであろうという事実は、今現在の自分の考え方や選択に立ち返らせるのだなと感じる。これは子どもを持つことが正義だと言っているのではなく、個人的に感じたことです。

 

 

某日

 

学生時代の友達から、別の友達と会ったという話を聞く。その友達があった別の友達は、自分も同級生として当時普通に話をしていた仲であるが、そんなに距離感も近かった訳ではなく、最近めっきり会うことはなかった「ずっとお休みしてる人」であった。元気にやっているということを友達伝えに聞けたことで、凍結されていた彼女のイメージが少し動きをみせて、それだけでよかったと思える出来事であった。

 

 

某日

 

昼12時に大阪駅出発のバスに乗り名古屋に向かう。数千円と格安でチケットを購入できるバスには、某男性アイドルグループのコンサートに向かうのであろう女性ファンで満席となっていた。こうも若い女の人に囲われていると、その場で浮いた存在であることに加え、いい年をして節約のためにバスのチケットを買ったことが浮彫りになったような気がして少し恥ずかしい。

バスの中ではラジオを聞きながら、車窓を眺める。見慣れない街並み、複雑なジャンクションの道路橋の構造、反対車線を通りすぎる珍しい車、大きな川に掛かる橋で開ける風景…そんなものをぼんやり見ていると、遠くに運ばれているんだなと、いくばかりかの旅情を感じる。遠く、といっても行先は名古屋であって、かつ名古屋滞在時間24時間だけの行程なのである。仕事上出張の多い人などからすると、片道3時間の一泊二日は大したものではないのだろうが、日常から切り離されたそれは、自分にとってささやかなショートバケーションなのであった。

きっかり15時に名古屋駅前に到着。長距離バスから降ろされる時は、いつも心の準備が出来ていないうちに突如目的地へ着き、ぶっきらぼうに街へ放り出されるという感覚で降ろされている。

レコード屋へ向かい時間を潰す。hair & music parlour FAMというレコード屋は、細やかなジャンル分けがなされており、中古屋だが全てのレコードに丁寧な紹介文が書かれており、ディグ欲を刺激される良いレコード屋だった。知らないレコードを思わず買ってしまうレコード屋は良いレコード屋だ。

宿にチェックインし、名古屋に来た目的のライブを見る。その後は、近辺で働いている友達に付き合ってもらい夕食を食べる。名古屋には台湾中華の店が何軒かあるようだか、ピカイチという店に入る。ドラゴンズ愛の強い店内であった。

友人とは仕事の話をする。友人は塾講師の仕事をしているが、同僚の講師が生徒からの人気を集めるために、解せないやり方をしていると溢していた。曰く、塾講師は生徒からの評価が会社での評価にも影響するらしいのだか、その講師は講師トレーディングカードなるものを作り、わかりやすいキャラクター化し、生徒に配ったりしているとのこと。生徒も受験勉強の中の楽しみとして、それを喜んでいるようだが、友人曰く「なりふり構わず、そんなダサいことをして人気取りをするなんて教育者としてクソ。生徒に勉強を教える前に、ダサいことを教えるな」。しかし、そのダサいことはルール上、なにもアウトなことをしてる訳ではなく、あくまで倫理観の問題なので、大声で非難することも出来ず歯痒いということを愚痴として吐いていたが、友人の言う通りだと思った。成果主義に回収される倫理的な貞操観念のなさ。その味気なさや息苦しさ。そんな明るくはない話題を抱えて、友人と宿に向かった。

 

 

某日

 

名古屋二日目。慣れない寝床でぐっすり寝付けず、起床。散歩をして友人が起きるのを待ち、コンパルという喫茶店へ。昨日よく話したこともあり、この日はなんとなく口数も少ない。ぼーっとして、バスの出発する名古屋駅まで向かうと、既に14時。ここからバスに乗って大阪に帰ると17時頃になり、あっという間に一日が終了する。友人と「今日ほど内容の薄い一日もないだろう」と話したぐらいなので、ここに書くこともあまりない。

帰りのバスでは、夜あまり寝れなかったにも関わらず一睡も出来ず、ぼーっと過ごす。この時既にショートバケーションには飽きて、子どもの顔が見たいと思い出していた。家族といれば1人になりたいし、1人になれば友達と会いたいし、友達と会えば家族に会いたいという勝手な思いを転がしながら、往路と同じように車窓を眺め、帰阪。

 

 

Sportインタビュー記事(和訳)

 

以前、こちらに書いたバンドSportが9年ぶりのアルバムをリリースするということで、ポーランド?の音楽サイトIDIOTEQにインタビュー記事が掲載されていました。英語はわからないけど読みたいということで、翻訳にかけましたので、それを書き残しておきます。自分の記録用でもありますが、どなたかの参考となれば幸いです。

 

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idioteq.com

 

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9年ぶりのアルバム「In Waves」を携えてエモヒーローSportが帰って来る!…友情とヘルツォークと火山

 

フランス、リヨンの4人組パンク/エモバンドのSportは、6月21日に9年ぶりとなる4枚目のLP「In Waves」をリリースする。

 

2011年の結成以来Sportは、Snowing、Algernon Cadwallader、RVIVR、Spraynardといったバンドの様式的な系統をたどりながら、アップビートでヌーディなギターと感情的に重たいテーマを融合させることで知られてきたが、フルアルバム『Slow』を2016年に発表した後、2019年、彼らは活動を停止した。

 

SPORT live by Hugo Clarence Janody

 

同年、彼らは『The disco after the breakdown 2010-2019』と題したリリースで過去の音源をまとめた(オリジナルの『Demo』7インチ・ブラック、『Colors』12インチ・ゴールド、『Bon Voyage』12インチ・ブラック・クリア・スプラッター、『Slow』12インチ・レッド・ブラック・クリア・スプラッターの全ディスコグラフィーを収録)。

 

600枚しか作られなかったこの音源の12ページのブックレットには、歌詞、ギグ履歴、バンドの個人的なメモが掲載され、さらにオリジナルのファーストプレスヴィジュアルを再現したアートワークも付いており、このアンソロジーは、La Tête d'Ampoule、Adagio 830、Voice Of The Unheard、Guerilla Asso、La Agonía De Vivir、Pike Recordsからリリースさた。

 

 

その後数年間、メンバーの何人かはガレージ・パンクのサイド・プロジェクト、VICEPREZを立ち上げ、2枚のアルバムをリリースしましたが、5年後にはSportという絆の元、再度集まることとなった。

 

SPORT by Alexis Machet

 

ニコ・モランは、「フローとおれは、アコースティック・ギターから始めて、Sportのために、また新しい曲を書き始めた」と振り返る。「すぐに、リヨン近郊のヴィルアルバンヌにあるミクロコスム・スタジオに行き、自分たちでヴォーカルを録音したんだ。いつも音楽が完成してから歌詞を書くから、時間がかかったよ」

 

SPORT live by Hugo Clarence Janody

 

休養中に独学で絵を学んだフローは、『In Waves』のために2つのオリジナル・アートワークを制作した。アルバム・タイトルは、AJ・ダンゴの同名のグラフィック・ノベルへのオマージュでもある。「癌で若くして亡くなった女性と、彼女を愛する男性の物語なんだ。お薦めだよ」とニコは付け加えた。

 

 

Sportの「In Waves」はAdagio 830、Bigoût Records、Good Job Dog Knights、Inhumano Records、La Agonia de Vivir、Nasty Cut Records、Not Sorry Records、Panique Paniek、Pike Records、Sonatine Produzioni、Shove Records、Shore&Woods Recordings、Vitriol Records、Voice of The Unheardなど、世界中のDIYレーベルの幅広いネットワークを通じてリリースされる。

 

すべてをコーディネートしているのは、13年以上彼らのレコードをリリースしている自身のレーベル、ラ・テット・ダンプルだ。「この数年間で売れたレコードは2万枚近くになりますが、そのほとんどがこのリビングルームかガレージを通ったものだよ」とニコは言う。

 

SPORT live by Hugo Clarence Janody

 

「完全にDIYなやり方にこだわっていて、プロの音楽業界の規範に従うことに興味はないんだ。DIYの世界ではすべてが信頼関係で成り立っており、誰からも失望させられたことはないと思う」

 

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すでに「Caveat」と「Are You There?」の2枚のシングルが発表されてる。この2曲からは、成熟した、しかし依然として感情的なSportの一面を垣間見ることができる。

 

「Caveat」は、ヴェルナー・ヘルツォークの映画に対する執念への直接的なオマージュであり、猛烈さへの瞑想録である。『頭の中にフィッツが浮かぶ、尾根を越える320トンの蒸気船』という歌詞は映画「フィッツカラルド」に言及している。

 

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また、火山学者のカティア・クラフトとモーリス・クラフト夫妻についても触れられていいる彼らは噴火の記録中に壮絶な死を遂げ、バンドにとって象徴的な存在となった。

「この曲は、私たち自身の人生に対する情熱と、激しく生きたいという願望を表現しています」とニコは説明します。「この曲の最後には、『心の奥底で燃えさかる炎 』というセリフがある。アルバムを作っている間、このセリフを聞くと涙が出てくるんだ。まるで、自分の心の奥底にある繊細な何かにぶつかるような感じでね」

 

SPORT by Alexis Machet

”Caveat”

 

There’s a man with a vision
A fire burning deep inside
Got a Fitz in my head
320-ton steamship moving over the ridge
Brought a light to arouse my sense of wonder
Elicit curiosity
Come around to arouse my sense of wonder
Through the dense emerald green grove
Dancing on the edge of love
Life in the distance, calling now or never
In the light of the endless summer spent together
Where am I in the distance ?
Running up to the crater, the fury, the blaze, the flame
Life keeps rising, grass will grow again
Where am I in the distance ?
A fire burning deep inside of me
This fire burning deep inside of me

 


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セカンドシングル『Are You There?』は、アルザスでの偶然の会話からインスピレーションを得ている。

「母が住むコルマール近郊アルザスのブドウ畑にあるデュ・ポン・ドゥ・ラ・フェヒトというオーベルジュの女性の主人に会ったんだ。彼女はリンゴの木について、そして春になると時々遅霜が降りることを教えてくれた。そのため、村人たちは木の下で焚き火をし、芽を寒さから守るのだそうだ。この歌は問う。『あなたは夜、つぼみの花を咲かせるためにそこにいますか?』と。」

 

”Are You There?”

Keeping watch through the silent nights
To shield blooms from frost’s cruel bites
When they’re gone, they’re no second coming
Are you there when the night turns cold ?
Will you stand when the tale unfolds ?
Time will tell if we came for something
A thousand blazes till quarter to seven
Ashes cooling in the mourning sun
Words don’t come out, they’re spoken too softly
Are you there, is that you talking ?
There’s a field beyond the bridge
Apple trees dread springtime freeze as
Last year the yield was close to nothing
Are you there when light is gone
Will you stay, buds begin swelling
Land whispers secrets only farmers know
A cresting tide, sand descending
Beneath the shell, who do you long to be ?
Wavelength clash, each yearn for bonding
Are you there ? Are you there ?
Searching for a way to start a sincere talk
I’d like to see buds swelling

 


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Sportはアルバムの1曲目、「Life」のビデオも撮影した。

「リハーサルの後、たった15分で撮影したんだ」とニコは言う。

 

”Life”

 

Life as you know it just became more meaningful.
Life as we know it, just became more meaningful.
It gives me something.

 

この夏、バンドは再びツアーに出る。イタリア、スペイン、ドイツ各地のパンク・フェスティバルに出演し、さらに日本、台湾、香港、そして沖縄へと向かう。

それでもSportは、彼らが言うところの 「季節限定バンド 」であることに変わりはない。ニコはこう語る。「6ヶ月間会わないこともあれば、数週間ツアーに出ることもある」

 

 

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May 16 – Annecy, France – Bistro des Tilleuls
May 17 – Marghera, Italy – Venezia Hardcore Fest
June 14 – Hamburg, Germany – Not Sorry Fest
June 27 – Vidreres, Spain – Actitud Fest
June 28 – Oviedo, Spain – LADV Fest
July 8 – Kichijoji, Tokyo, Japan – Warp
July 9 – Kyoto, Japan – Submarine
July 10 – Osaka, Japan – Conpass
July 11 – Nagoya, Japan – Stiffslack
July 12 – Shimokitazawa, Tokyo, Japan – ERA
July 13 – Shinjuku, Tokyo, Japan – Nine Spices
July 14 – Naha, Okinawa, Japan
July 15 – Central, Hong Kong
July 16 – Taipei, Taiwan

 

SPORT "Caveat"

 


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This song is a tribute to Werner Herzog 

 

There's a man with a vision a fire burning deep inside

Got a Fitz in my head

320-ton steamship moving over the ridge

Brought a light to arouse my sense of wonder

Elicit curiosity

Come around to arouse my sense of wonder

Through the dense emerald green grove

Dancing on the edge of love

 

Life in the distance, calling now or never

In the light of the endless summer spent together

Where am I in the distance?

Running up to the crater, the fury, the blaze, the flame

Life keeps rising, grass will grow again

Where am I in the distance?

 

A fire burning deep inside of me

This fire burning deep inside of me

 

 

 

*

 

 

この曲はヴェルナー・ヘルツォークに捧げる

 

心の奥底に炎を燃やし、ビジョンを持つ男がいる

頭の中にはフィッツカラルドがいる

320トンの汽船は山の背を越えていく

不思議な感覚を呼び起こす光をもたらした

好奇心を刺激する

不思議な感覚を呼び起こしに来てくれ

エメラルドグリーンの密林を抜けて

愛の淵で踊る

 

遥かなる人生、今か今かと呼びかける

一緒に過ごした終わらない夏の光の中で

ここは人生のどの辺りなんだ?

火口へ駆け上がる、怒り、炎、激情

草が再び生えてくるように、人生もまた上昇していく

ここは一体どこなんだ?

 

心の奥底で炎が燃え上がる

心の奥底で炎が燃え上がっている

 

 

*

 

 

Sportというバンドについては以前こちらを書きましたが、去るの5月6日、Sportは4枚目となるアルバム「In Waves」を6月21日に発売することを発表しました。

 

 
 
 
 
 
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このアルバムリリースに先立って、5月13日には「Caveat」を、5月27日には「Are You There?」を、6月10日には「In Waves」を配信リリースすることも発表されています。

なお、この3曲の他にも「Life」という曲のビデオが6月3日には発表されていますが、ここでは「Caveat」の和訳をしてみました。曲の前半は歌い上げたくなるような勢いですが、中盤からはテンポを落として哀愁も感じさせる展開に変わっていく曲です。

 

歌詞は初めにある通り、映画監督ヴェルナー・ヘルツォークの作品に関する内容が散りばめられています。

頭の中にはフィッツカラルド(Fitz)がいる』『320トンの汽船は山の背を越えていく』『エメラルドグリーンの密林を抜けて愛の淵で踊る』というのは、天然ゴムの樹液が取れる木の生える森を開拓すべく、アマゾンの奥地の山を船で峠越えしようとする映画「Fitzcarraldo」に由来した歌詞かと思われます。

 

 

この「Fitzcarraldo(フィッツカラルド)」とは、ずばり映画の主人公の名前となっています。彼はオペラを見に行くのにチケットを持たずに正面入り口から乗り込んだり、ゴム園の開拓をする前は鉄道事業で失敗していたり、ゴム園を開拓しに行く船を購入するお金を愛人に出してもらったりと情けないところが多分にある男です。

しかし、ゴム園開拓のために船を山越えさせて前人未踏の地に足を踏み入れるといったアイデアを信じて疑わなかったり、愛人モリーのお金で買った船に「モリー号」という名前を付けたりと、ぎりぎりのところで憎めない男としても描かれています。ゴム園の開拓も、自身が見たオペラに感動し、オペラ座を建てるためなのです。

話の筋書きは結構ツッコミ所というか、ハチャメチャなところがあるのですが、この映画で重要なのは常人離れした信念を持つ男が、本当に船を山の頂上まで持ち上げたという一点なのかと思いました(時に映画に整合性や現実性を持ち込むのは、野暮なことのように思われます)。

 

話が「Caveat」の歌詞から逸れましたが、ヴェルナー・ヘルツォークに捧げるとしているのは、この船を山越えさせるというのをCGなしで実現させ、撮影したという監督の執念ともいえる情熱に因るものかと思います。密林を切り開き、均した山の斜面をデカい蒸気船がジリジリと上がっていく映像は、思わず固唾を飲んで見入ってしまいます。

ここで、例えばスターウォーズのエピソード6(ジェダイの帰還)は1983年公開なので、1982年公開時にそのレベルのCGでこの映画を撮ったとしても、こういった迫力のある映画にはなっておらず、少し筋書きにおかしなところのあるB級映画に終わってしまっていたかもしれません(宇宙空間を舞台にした映画とアマゾンを舞台とした映画におけるCGの取り扱われ方は当然違ってくるはずなので、スターウォーズB級映画と言っている訳ではありません)。

つまり、船を山越えさせるというのは主人公フィッツカラルドの信念であり、監督ヴェルナー・ヘルツォークの情熱であり、オーバーラップしていたのかなと思います。

 

そして、誰もが『ここは人生のどの辺りなんだ?』と答えのない自問をしてしまう傍らで、そのような信念や情熱を『心の奥底で炎が燃え上が』らせることの尊さをこの曲歌っているのではないのでしょうか。

 

なお、『火口に駆け上がる』という歌詞は、映画「内なる炎:カティアとモーリス・クラフトへのレクイエム」に由来しているのかと思われますが、こちらの映画は現在、サブスクで観られる状況にはないようで、残念ながら見れていません。

また、もしかすると『一緒に過ごした終わらない夏の光の中で』という歌詞も何らかの映画からのオマージュなのかもしれませんが、元ネタを見つけられませんでした。

 

 

*

 

 

これまでに訳した1stアルバム「Colors」の曲を以下にまとめておきます。

 

Colors by SPORT

01.Barcelona, 1992

02.Helsinki, 1952

03.Lake Placid, 1932

04.Saint Moritz, 1928

05.Melbourne,1956

06.Sydney, 2000

07.Paris, 1900

08,Paris, 1924

09.Lillehammer, 1994

10.Saint Louis, 1904

11.Annecy, 2018

12.Sarajevo, 1984

13.Montreal, 1976

 

 

 

 

 

SPORT "Barcelona, 1992"

 

 

 

 

The rain, the sand, we kept our eyes shut so it never ends,

Cause I'm true, near you, we speak a wordless language we understand.

 

Hey, I should have known, I feel sorry, I guess we're both alone

Doubts and fears, I've never known how to resolve them,

Lights go out when I'm trying.

 

The rain, the sand, we kept our eyes shut so it never ends,

Cause I'm true, with you, we speak a wordless language we understand.

 

 

 

*

 

 

雨や砂

目を閉じていたから、それは決して止まなかった

君のそばにいるから

おれ達は言葉のない言語で通じ合う

 

おれは知っておくべきだった

申し訳ないよ

おれ達はふたりとも孤独なんだと思う

疑念と恐怖

それを解決する方法を知らなかった

努力すればするほど光は遠のいていった

 

雨や砂

目を閉じていたから、それは決して止まなかった

君のそばにいるから

おれ達は言葉のない言語で通じ合う

 

 

*

 

 

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最近

 

某日

 

育休中のある一日。

7時頃起床。最近は暖かくなってきたが、まだ半袖一枚では肌寒く感じる。

下の子を抱えてリビングに起きて行くと、上の子が「おはよう」と声をかけてくれる。下の子にミルクを咥えさせ、朝食を取る。上の子がパンにジャムを塗ってくれと差し出すので、塗ってやる。食後、YouTubeシルバニアファミリーなどがおままごとしている動画を見せ、その間に上の子を着替えさす(そうしないと、保育園行きたくないと言って逃げ回る)。家には飴やグミ、チョコなどの各種お菓子を取り揃えてあるのだが、その日の上の子の気分に応じてお菓子を少々差出すことでご機嫌を取り、靴を履いてもらい、保育園に向かう。

最近は保育園に行く前に公園に行きたいというので、立ち寄って一緒に遊ぶ。虫の嫌いな上の子は、以前滑り台を滑った時に虫を踏みそうになって以来、滑り台に虫がいないか念入りに観察するようになった。最近では蟻よりも小さな虫でさえ見つけて、取るようにお願いされる。公園近くの電線にスズメが止まっているのを見て「チュンチュンがいるー、なんでー?」と聞かれる。なんでも「なんでー」と問うてくるのが3歳児である。天気がいいからお散歩したかったんちゃう?などと答えたりしているうちに、自ら保育園行くと言い出してくれる。まっすぐに職場に行きたくなくて、コンビニに寄ったりする大人と同じなんだろう。

朝の公園

保育園に送った後は、スーパーで買い物をして帰宅(外出は極力保育園の送迎時のみとしたい)。帰宅すれば、午前中はラジオやPodcastをつけて散らかったおもちゃの片づけ、掃除、洗濯、皿洗い。お気に入りのラジオを聴きながらだと、家事は苦痛ではない。換気扇のフィルターなんかを掃除した日は気持ちがいい。

家事が終わるとだいたい昼時になる。料理は基本的に妻という役割分担になっているが、「今日は私昼ごはんいらんから作らん」などと宣言された日には、こそこそと昨晩の残り物を冷蔵庫から取り出して食べる。

昼食後は、身体が固いのを何とかしたいと思い、育休中の日課とした柔軟体操をする。過ごしやすい季節。窓を開け、風と日差しを浴びて、ストレッチするのは何とも健康的な気分になる。

午後の数時間、上の子が保育園から帰るまでは自由に過ごす。例えば下の子と並んで横になり、映画を観ていたりする。下の子のオムツを変え、ミルクを与え、時には腹の上に抱き枕のように乗せてみたりしてスキンシップをしていると、気が付けば二人して昼寝したりしているので、1時間半の映画を2時間半かけて観たりすることになる。

力尽きました

そうこうしている間に16時の保育園のお迎えの時間になる。上の子が帰って来ると、保育園で今日あったことなどを聞きながら、おままごとをしたり、手押し車に乗せて家中を走ったり、四つん這いの状態で背中に子を乗せて動いたり(通称「お馬さん」)、ねんど遊びをしたり、様々な遊びをする。

夕食は18時半頃には食べる。上の子はその時間帯にやっている忍たま乱太郎を見るのが好きなので一緒に見たりする(自分が子どもだった頃から全く変わらない忍たま)。Eテレには大変お世話になっている。

夕食後は皿洗いをしたり、再度おままごとの続きをしたりした後、風呂に入る。上の子は風呂嫌いなので、あの手この手を使って浴室まで連れて行こうとする。バスボムを買ってみたり、おもちゃを浴槽に入れて宝探しゲームをしたり、ぬいぐるみと一緒に入浴してぬいぐるみを綺麗にしたり。頭を洗う時に「パパいや。ママがいいの」などと言われたりしする。パパは顔にお湯がかかって洗うのが下手だという。下の子は強いもので、多少顔にお湯がかかっても泣かないので、上の子と違い、安心して洗ってあげれる。

風呂上り、上の子はアイスを食べるのが定番となっているので、冷凍庫にアイスを常備するのは必須だ。特に「カピルス(カルピス味のアイスキャンディー)」が好きなようで、食べられるとわかると「カピ~カピカピ~」と歌い出す。

寝る前の歯磨きも上の子は嫌いなので、YouTubeで1本好きな動画を見せてどうにか歯磨きさせることにしている。逃げ回ったり、お遊びを止めてくれなかったり、なににつけてスッと動いてくれることはない。寝室に連れていけるのはだいたい21時半頃になり、最後に絵本を読んだりして寝かしつける。

そして自分が寝る前には、一日の子どもの様子や言動を記録した日記を書く。大人の発想にない奇想天外なことを言ってみたり、思わぬ成長を見せつけられたりするので、それを記録しておきたい。日記以外にも、笑えば写真を撮るし、歌えばボイスメモを取るし、走り出せば動画を撮る。

一方で、自分の子どもの頃を思えば、今の子どもの年齢の頃の記憶はほとんどない。子どもたちが成長した時、今の日々のことは覚えていないのだろうと思うとたまらなく切ない気持ちにもなる。つまり、今子どもと過ごした時間は自分(たち夫婦)の記憶にしか残らないということになってくる。であればやはり、儚い思いを抱えながら今の日々は出来る限り記録しておこう。

 

 

某日

 

会社に用事があり出向く。心ある方に「育休大変でしょう。頑張って」というような言葉をかけてもらった。大変でないとは言わないが、仕事を頑張っている方にそう言っていただくのは恐縮する。自分にとっては明らかに仕事の方が大変だ。

自分の仕事を通すことしか考えていない人、リスクを考えて何も前向きに仕事しない人、視野が極端に狭くて他の人の仕事に思いやりを持てない人…といった人が会社にはたくさんいて、そういった人と話すことや、自分もそれに染まりつつあった嫌悪感が、自分の精神衛生を蝕んでいたのだと職場を離れて改めて感じている。

 

 

某日

 

文藝2025年春季号を購入。

www.kawade.co.jp

 

「特集①日記 記憶と記録」の滝口悠生「日付を書けばいい」、「特集②犬を書く、犬と生きる」の岸政彦「犬は自転車」が良かった。日記を書くことに興味がある人、犬やペットを飼ったことがある人には是非読んでほしい。

 

 

某日

 

村上春樹の短編集「TVピープル」を読む。

表題の他、「眠り」という短編が印象的だった。

「義務として買い物をし、料理を作り、掃除をし、子供の相手をした。義務として夫とセックスをした」という主婦。淡々と生活をこなし、全てに熱を感じさせない。そんな主婦は突如17日間一睡もしないようになる。昼は普段通り生活し、夜はある本をひたすら読み続ける。そのことは家族にも知られることはない。そんな主婦が最終的にどうなるのか…。

家庭という檻の中に閉じ込められ、ほとんど自由意志を持たずに生活することを強いられている主婦の生活を、生きながらにしての「死」として描き、それに対して本当のひとりの人間として生きるために夜中起き続ける…ここまでは、まあわかりやすい大筋として、その「本当のひとりの人間」として生き続けた先には何があるのかという点で、深淵を覗き込むような怖さが後に残った。

 

そして偶然に、ケリーライカート「River Of Glass」という似たテーマを取り扱う映画を近しいタイミングで観た。

www.nobodymag.com

www.kelly2021.jp

「River Of Glass」においては、主婦が家庭を(子どももいるが、驚くほどあっさりと)抜け出し、たまたま近くにいた男と、事件らしいものに巻き込まれながら遠くまで行こうとする。やはり、自由を掴むために生活を投げ出したその先には何があるのか…というのが映画のオチになっており、興味を惹かれながら観ていた。

自分の「ここではないどこか」への逃避願望とそれの行く末を知りたいという気持ちが、2つの作品を通じて自分の中で浮彫りとなったような気分になる(2つの作品はともに女性(主婦)が主人公であり、男性社会の中で抑圧されている女性の行き場のなさが前提にあり、男性である自分は完全に実感を持ってそれを読み取れたわけではないのかもしれないが)。しかし、結局はどちらの作品も逃避行、自分探しの先に安易に希望を与えてはくれないのである。

 

 

某日

 

職場では基本的に自分から雑談しないし、同僚は同僚、仕事仲間として接しており、友達とは明確に違うと考えている。けど、違う出会い方をしていたら良い友達になれたのかもな、と思う人は何人かいる。仕事上の損得や、プライドを傷つけるような弱みを握られたりがない関係なら…と思っていたが、自分が異動したことをきっかけに、ふと仕事関係なくご飯に行ける友達がひとりできた。

何度かご飯に行き、好きな本の話をして相手のそれを読んでみたり、おすすめの漫画を買って渡したり。10代~20代の頃、新しくできた友達と距離を縮めるためにしていたようなことを30代半ばにしてしており、こそばい感じもするが、こうやって共通項を探り合うような時間は楽しい。会える友達は減っていくことはあっても、増えることは少ないので、長く付き合えられればいいなと思う。

 

 

某日

 

BSテレ東「秋山アーカイブ映像センター」を見て声を出して笑った。

www.tv-tokyo.co.jp

 

素人が家に眠るホームビデオを「秋山アーカイブ映像センター(AAEC)」に送り、それをロバート秋山と一緒に観るというもの。30年前に祖母の古希祝いとして親族一同でかくし芸大会をした時のホームビデオなんかは、それだけで何やってんのというかんじがしてもう少し面白いのだが、それだけでなく、普通にスマホに入っている子どもが噴水で遊ぶ動画やただハムスターが穴を掘っている動画なんかを「何も起こらない日常映像」として秋山が面白がって見ている。秋山が笑えば面白いものとして見れてしまうのがすごい。

 

 

某日

 

エドワード・ヤンカップルズ」を観る。

www.bitters.co.jp

 

人を騙して金を稼ぐマネーゲームを繰り返す4人組。ひとりが女を連れ込むと、その女は他の3人にも回される。だが4人の掟として決められているのは、キスはしないということ。マネーゲームに感情は不要。周りの登場人物も一様に金を稼ぎ、成功することばかりを考えている。ひとりがフランスから来た少女に言う。「ここは望みのかなう街だけど、恋の実る街じゃない」。欲望の渦巻く冷凍都市に恋や愛は存在しない…。

 

映画で描かれる都会生活の虚無さは現代社会に対しても十分な批判になっているけど、背景として描かれているイケイケなバブル期の活気だったり、台湾の雑多な街並みは、現在の日本と比べるとどうしても現実感が薄い。でも、自分にとってはそれがいいのかなと思う。現実とは離れている、でも全くの異世界ではないという絶妙な距離感があって、そのおかげで新鮮に観られるのだと思う。例えば現代日本で同じ話が繰り広げられていても、距離感が近すぎて生々しかったり、変な違和感を抱いたりしてしまうのではないだろうか。

80年代〜90年代のアジア映画が好きな理由の一つはそんなところにあるような気がするのだが、そんなことを思っていたらエドワード・ヤンヤンヤン夏の想い出」が4Kレストア化されて公開されるというニュースが出ていた。楽しみです。

natalie.mu

 

 

某日

 

友人と遊ぶために少し遠出をして一泊二日で家を空ける。物理的に家から離れた場所で友達と会ったり、一人で散歩をしたりすると、家庭での役回りから解放され、生活が少し風通しが良くなる。

 

 

某日

 

最近聴いている曲。

 

Coachella2025のYouTube配信を観て①


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Coachella2025のYouTube配信を観て②


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ラテン音楽の良さに触れて


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リリースから50年ということで


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"OK I'll find you 来世"っていい歌詞ですね


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某日

 

10週間に渡って、毎週伊丹十三脚本監督作品を1本づつ上映する「伊丹十三4K映画祭」を観終える。

www.nihon-eiga.com

 

映画のテーマが社会的な問題(宗教団体、政治とカネ、ヤクザ…)であったとしても、どれもユーモアが散りばめられており、肩ひじ張らずに見れるのが伊丹十三映画なのかもしれない。中でも、個人的にはユーモアに全振りの「タンポポ(1985)」が一番好きだった。

 

流れ者の運転手が未亡人のラーメン屋を町1番にするために奮闘する "ラーメン・ウエスタン"。監督第2作。
美しい未亡人に惹かれたトラック運転手が、彼女が営むさびれたラーメン屋を立て直すラーメン版「シェーン」。食と性にまつわるエピソードが圧倒的に面白い一作。雨の夜、タンクローリーの運転手ゴロー(山﨑)とガン(渡辺)は客のいないラーメン屋に入るが、味は今ひとつ。女手ひとつで店を切り盛りしながら一人息子を育てる女主人タンポポ(宮本)のために、ゴローは最高においしいラーメンを作る作戦を練る。

 

女主人タンポポのラーメン屋を、通りすがったトラック運転手ゴローが立て直すというのが主たるストーリーなのだが、コメディとして話はハチャメチャに進められていく。いっぱしの運転手がたまたま訪れたラーメン屋をプロデュースする。街のならず者と野原で決闘し、その結果ならず者もラーメン屋プロデュースの仲間となる。他のラーメン屋のスープの秘訣を盗もうと、隣の家からスープ作りを覗く。餅を詰まらせた老人を助けると、実はその老人は謎の金持ちであって恩返しをしてもらう。

この主たるストーリーに対して、いくつかの食にまつわる挿話が挟まれる。品よくパスタを食べるマナー講座を行われている隣で、ズルズルと音を立ててパスタを食べる外国人。高級フレンチでフランス語のメニューが読めず狼狽える会社重役たちを尻目に、流暢に注文をしていく下っ端社員。スーパーで桃やカマンベールチーズに親指を押し付ける老婆とそれを捕まえようとする店員。瀕死の妻に対して「母ちゃん、死ぬな!…そうだ、飯を作れ!」と言って炒飯を作らせるも、炒飯を作り終えた途端息絶える妻と、泣きながらその炒飯を食べる男。

市井の人の食べ物に関する日常を切り取った挿話を繰り返し見ているうちに、めでたくラーメン屋は成功していく。そして、全ての人間にとって初めての食事である母乳を飲む赤ちゃんを画面いっぱいに映すとともにエンドロールが流れて映画が終わる。このエンドロールに至り、映画館でひとり幸福感に包まれていました。

 

その他の映画で印象的だった台詞。

 

静かな生活より。街で知的障害者の弟を「落ちこぼれ」と女子中学生に罵られたが何も言い返せなかった姉に対して、パパの友人が言う言葉。

その可愛らしい子供の顔の後ろに、30年後の差別的な主婦の姿を見るべきだわ。

 

マルタイの女より。宗教団体に脅されるヒロインの愛人が、その脅し相手に対して引き出しから拳銃を取り出し、相手を射殺しながら言う言葉。

お前達は馬鹿だから、知らないだろうが、年寄りには2種類あるんだ。

何時までも生きていたい年寄りと何時死んでもいいと思っている年寄りだ。

まだ、ひょっとして助かると思ってるな。人生は実に中途半端だ。

そう、道端のドブのようなところで突然、終わるもんだよ。

 

マルサの女2より。国税局にて取り調べを受ける地上げ屋の言葉。

オレは国のために地上げをやってるんだよ。東京が国際的な情報都市として世界の金融センターになるためにはな、世界中の企業を東京に集めなきゃならねんだよ。そのためには、オフィス面積が絶対的に不足してるんだ。その不足を埋めるために高層ビルを建てるしかねえだろ! じゃ、高層ビルをどこに建てるんだ? そんな土地どこにある?

おいっ!どこにあるんだよ! …法律でも改正して私有地を取り上げるか? そんなことは出来ねえよな。だからオレたちがやってるんだよ。

政府や大企業のお偉いさんたちがな、自分の手を汚すか? 汚すわけきゃあねえだろう! ニッポンの改革のためにはな、誰かが汚ねえ仕事を引き受けなきゃならねえんだよ!

オレ達がやらなかったら東京なんて、すぐに香港にその地位を奪われちまうんだよ。お前らそれでいいのかあ!? おい! ニッポンがどうなっても構わねえってのか!

 

 

某日

 

君は寝ながらちゅぱちゅぱと唇を動かしている。ミルクを飲む幸せな夢を見ているのかもしれない。君が起きている時にその口の中に指を入れてみたりもする。まだ乳歯も生えていない柔らかい歯茎で思いのほか強く吸い付かれて、こそばゆくとも幸せな感触が伝わってくる。君の寝相は悪く、さっきまで頭があった位置に足があったりする。そんな調子なので、寝ながらももぞもぞと動く君の体に気が付くと毛布が覆いかぶさったりもする。毛布の覆いかぶさった愛くるしいもっこりとした塊は、窮屈そうに声を上げている。その毛布を剥がすと、ぱっちりと目の開いた君と目が合う。しばらく君を床に転がしておくと、君は1週間前までは出来なかった寝返りを打ち、うつ伏せの姿勢になっている。だが、そこから仰向けの姿勢に戻ることができず「ん゙ーん゙ー」と声にならない声を上げて、誰かに体を戻してもらうのを待っている。その声を聴いた君の3歳年上の姉が駆け寄り、君の体をワシっと掴み一気にひっくり返す。君はその突然の出来事に驚き、しばらく呆気に取られた顔をするが、少しの間の後、下唇を突き出してべそをかき出す。それを聴いた両親は君に近づく。君が本格的に泣き出さぬよう、君の体を指先で突いたり、君の手足を持って右に左に動かしてみたりする。それは小さい君がダンスしているように見えて、両親と姉を笑顔にさせる。すると君も皆が君の顔を覗き込んで笑っている状況に満足してか、幸せな笑い声を上げる。その時の瞳は、きらきらと輝き、覗き込む人の顔を鏡のように映しだす。その瞳の輝きは、あふれんばかりの希望であったり、世界すべての肯定のように感じられたりする。君には瞳にその輝きをいつまでも持っていてほしいと思う。

 

 

SPORT "Lake Placid, 1932"

 

 

 

 

I never came back where I grew up

This house has been brought down to the ground

So buy me another drink and we'll see if we can go up there

I've got these bruises of a little kid in a little town, in a little town

I never came back where I grew up

I never came back where I grew up

 

 

 

*

 

生まれ育った場所には戻らなかった

その家は取り壊された

飲み物をもう一杯買ってそこに行けるかどうか確かめてみよう

小さな小さな町の、小さな子どもだった思い出が残っている

生まれ育った場所には戻らなかった

生まれ育った場所には決して戻らなかった

 

 

*

 

 


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